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鈴木徹さん作成 鳴海醸造店の歴史

鈴木徹さんが鳴海醸造店の歴史について作成してくれました。

鳴海醸造店の建物

電信柱が地中化する前の写真です。

種   類 : 黒石市有形文化財
名   称 : 鳴海家住宅
屋   号 : 稲村屋
所 在 地 : 黒石市大字中町1―1
指定年月日 : 平成10年4月10日
所 有 者 : 株式会社鳴海醸造店、鳴海文四郎
概   要 : 建 物  間  口  17間5尺3寸  34.368m
奥  行  43間3尺5寸  83.52m
こみせ  長  さ  23間半    45.12m
幅     5尺2寸    1.86m
敷地面積       約1,280坪   4,727.21㎡
主屋面積       建坪219.33坪 808.5㎡
作業場・前蔵     建坪96坪   353.28㎡
その他の蔵等     建坪174坪   640.32㎡

鳴海醸造店について

鳴海醸造店は、文化3年(1806)の創業以来約220年の伝統を誇る酒造店である。屋号は『久〇(きゅうまる)』を名乗り、商号は『稲村屋』である。代表的な銘柄は、「菊乃井」である。
また、鳴海醸造店は、代々文四郎を襲名している。
初代文四郎は、旧尾上町金屋(現在、平川市金屋)の豪商佐藤喜助である。佐藤喜助は、浅瀬石の鳴海久兵衛の三女と結婚し、長男平吉、二男源三郎、三男俊吉を授かる。長男平吉は、黒石藩士になるが、二男源三郎が二代目文四郎を襲名する。そして、三男の俊吉が、初代の「久〇」である。俊吉の長男俊作が二代目文四郎の長女りの のところに婿入りし、三代目文四郎を襲名する。
三代目文四郎は、横町の鳴海理兵衛の長男を養子にし、四代目文四郎を襲名させる。四代目文四郎の長男敬夫が五代目文四郎を襲名する。五代目文四郎の長男勝文が、六代目文四郎を襲名し現在に至っている。そして、六代目文四郎の長男信宏が、七代目文四郎を襲名する予定である。
さて、黒石は江戸時代から近江商人が進出してきた町である、黒石に入ってきた目的の一つに酒米であったろうと考えられる。そのため黒石は江戸時代から造り酒屋も盛んであった。元禄15年(1702)の「酒造米覚」によれば25軒の造り酒屋が存在したというが、30数軒の造り酒屋があったという記録もある。
江戸時代後期の嘉永5年(1852)の「中町組屋敷間数歩割下帳」によると、「稲村屋文四郎」の向かいに「柳屋齋兵衛」という造り酒屋ある。また、そのほかの資料から「稲村屋文四郎」の南向かいが「三上屋長太郎」、「柳屋齋兵衛」の南向かいが「池田屋太郎兵衛」という造り酒屋があることが知られている。つまり、江戸時代には、鳴海醸造店の四つ角がすべて造り酒屋であり、そのくらい黒石には、造り酒屋は立ち並んでいた。
文化3年(1806)に創業した造り酒屋「久〇」は、江戸時代の終わり頃から明治にかけて襲名した三代目文四郎の時代に大きな店を構えるようになり、今日に至っている。因みに今年、令和8年は「久〇」が創業して220年になる、創業した当時は、苗字帯刀が許されなかった時代であるため、「久〇」という屋号を使用して造り酒屋を営業していた。この「久〇」は、初代文四郎の妻の実家である浅瀬石の鳴海久兵衛から命名したものと推察される。また、「稲村屋」という名称であるが、浅瀬石村にある稲村では、凶作の時でも稲村の田畑では収穫があるということから、「稲村」という名前が付けられたという。後に「稲村屋」は、商号として使用されるようになる。
「久〇」の代表的な銘酒「菊乃井」である。「菊乃井」は、二代目文四郎が酒を搾る時にその槽口(註1)に菊の枝を添えたことに由来する。二代目文四郎は、菊の花を愛でて、その芳香を酒に取り入れたいという願いから「菊乃井」という銘柄を誕生させたと言われている。

鳴海醸造店の図面

鳴海醸造店の図面

鳴海醸造店の図面です。

鳴海醸造店の建築年代

鳴海醸造店の建築年代は不明であるが、1700年代後半の築造と思われ、中町に面した側には「こみせ」が設けられている。主屋は敷地の南西の角に置かれている。その南側は三間幅の通り土間で、中町への出入り口には吊り上げ式の大戸が現存している。土間の北隣には「事務所兼応接室」、「ちょうば・いま」、「じょうい」、「だいどころ」が並び、その北には、「なかのま」、「ざしき」、「なんど」の二部屋が並んでいる。このように、通り土間、その片側に二列に配された部屋、吊り上げ式の大戸など、間取りや造りが同じ中町地区にある重要文化財高橋家住宅と類似している。さらに鳴海家住宅では、「こみせ」側に「ぶつま」と「いんきょべや」が2部屋を設けてあり、「ぶつま」には蔵が設けられ仏壇が置かれている。
以上が主屋で、その北東には少し離れて文庫蔵がある。主屋と文庫蔵は、「なんど」の隣に設けられた「へやっこ」と呼ばれる部屋と結ばれている。また、主屋と文庫蔵の間には大石武学流庭園があり、一般に津軽で呼び慣わされているように「つぼ」と呼ばれている。
敷地の東南部には蔵や作業場が置かれている。作業場を囲むように「しこみ蔵」「貯蔵庫」「とうじべや」「こうじむろ」が置かれ、主屋と通り土間でつながる。現在、通り土間の一部は作業場として使用されている。
裏庭には「こめぐら」「おくのこめぐら」「せいまいじょ」「みそぐら」などの大きな蔵が並んでいる。嘉永5年(1852)の『屋敷間数歩割下帳』の記録からも中町の稲村屋文四郎宅藩政時代から大規模な屋敷を構えていたことがわかる。
鳴海家住宅は、中町の角に位置し「こみせ」の出入口にあたる。中町に面する主屋は、200年以上経過する建築物でありながらあまり改築、改修をされずに今日に至っており、伝統的な店構えを守っている。また、「こみせ」を完備し、町並みの景観にも非常に重要な役割を果たしている。

鳴海氏庭園

鳴海家住宅の主屋に北側には、大石武学流の庭園が所在する。この庭園は、鳴海氏庭園と呼ばれており、大石武学流の作風を伝える庭園の一つで、庭園の特徴である意匠または構造を良く残している。作庭年代は、明治20年(1887)頃に小幡亭樹が作庭を開始し、後に池田亭月が完成したと伝えられている。鳴海氏庭園は、T字形を成しており、客間と座敷に配されている庭園が中心と思われる。客間と座敷の沓脱石からV字形に配置された飛石は、一方が池の南岸に据えられた礼拝石に向かっており、他方は右側の離れ蹲踞へと延びている。池の北端には大小三石から成る枯滝石組があり、その周辺や後方には深山石とされる景石や野夜燈と呼ばれる石燈籠が据えられており、また、庭園の主景となるクロマツが植栽されている。そして、やや離れた東方には守護石とされる大きな景石が据えられている。庭園の北西部には、門があり、こみせに面している。門から池に西面する隠居部屋の沓脱石まで飛石が配され、また、池の北西側には明治43年(1910)に建立された三代目鳴海文四郎の銅像がある。鳴海氏庭園は、大石武学流の作風を伝える庭園の一つで、造園史上の意義は深く、同時代に属する類型の中でも特に意匠または構造面の特徴となる造形を良く残していることから、平成19年7月26日に登録記念物に登録された。

【註釈】

註1: 槽口は、「ふなくち」と読む。槽口は、搾った酒が出てくる口の部分のことである。

中町組屋敷間数歩割下帳

中町組屋敷間数歩割下帳

中町組屋敷間数歩割下帳です。左下に「稲村屋文四郎」と有ります。ここが鳴海醸造店です。

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