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鳴海文四郎(なるみぶんしろう)の家系 銘酒菊乃井(きくのい)醸造元

鳴海醸造店(なるみじょうぞうてん)銘柄菊乃井(きくのい)のルーツを探る
代々文四郎(ぶんしろう)を襲名している。
家系図をもとに分かる範囲でブログに書き留めておきたいと思い
掲載しました。

初代文四郎(ぶんしろう)

初代文四郎は、旧尾上町(現平川市)金屋豪商佐藤喜助家が浅瀬石の鳴海久兵衛の三女を嫁に貰うところから始まる。子供は長男平吉、次男源三郎、三男俊吉(久〇一初代)。

二代目(ぶんしろう)

長男平吉は黒石藩士となり、次男の源三郎が二代目文四郎となり新町中村家のフサと結婚する。子供は長女りの、二女は分家する(鳴三・鳴海要吉生家)、三女早生、四女たかは前町分家(西谷嘉三郎家作兵衛・丸二家初代)、五女サダ(宮川家理兵衛・横町分家丸り初代)、六女早生、七女(板柳町竹浪家へ)

三代目(ぶんしろう)

長女りのが三男俊吉(久〇一初代)の長男俊作を婿にもらい三代目文四郎となる。
子供には恵まれず五女サダ宮川家理兵衛・横町分家丸り初代)の系統から養子をもらう。

四代目(ぶんしろう)

四代目文四郎は横町鳴海理兵衛長男で代議士2期を務めた。嫁は板柳町竹浪家長女のタキをもらった。長女みきは分家(鳴海作兵衛次男彰次郎)、二女つね(金木山本家)、三女せき(大阪村元家)、四女りよ(横内忠徹へ)、五女けい(荒屋山口家)、長男敬夫が五代目文四郎となる。次男英夫は弘前竹内家のりつと結婚して分家する。

五代目(ぶんしろう)

五代目文四郎は弘前山形家のつやと結婚する。長男勝文、次男早生、長女〇〇、二女〇〇、三男〇〇。

六代目(ぶんしろう)

長男勝文が六代目文四郎を襲名。前町の〇〇と結婚する。
私鳴海信宏の両親になります。

書き足し

東奥日報社様、あおもり老舗ものがたりより抜粋させていただきました。
掲載日 2014年1月25日 朝刊

 

鳴海醸造店は江戸から明治にかけて、3代目文四郎(ぶんしろう)の時代に大きく飛躍した。「3代目は商売上手でかなりの財を成した。津軽地方の長者番付でトップ3に入ったこともあったようだ」と6代目文四郎。その隆盛ぶりを伝えるように、鳴海醸造店の庭園には3代目の銅像が建立されている。
3代目には子どもはなく、別家から養子となって継いだ4代目文四郎は政治を志す。
大正6年(1917)の第13回総選挙で初当選、代議士となった。
続く2度の選挙は落選したものの、昭和3年(1928)の総選挙で返り咲いた。雪国のハンディを政治的に解決しようと山形県の代議士・松岡俊三が提唱した「雪害救済運動」に共鳴。同運動に力を注いだ。
5代目文四郎は昭和30年(1955)、ビールの卸問屋を設立、流通業に乗り出し、昭和34年(1959)には鳴海醸造店を株式会社化した。だが昭和40年(1965)53歳で病死した。
東京の酒類卸問屋勤務を経て、父の死の前年に帰郷していた6代目文四郎は24歳の若さで醸造店と卸問屋の社長に就任。卸問屋で全ての酒類を取り扱えるように手続きをし、売り上げを大幅に伸ばした。しかし安売り合戦などで次第に競争は激しくなり、平成4年(1992)弘前の同業者に卸問屋を売却した。
「売却が5年遅れれば赤字を抱え、本業にも影響した可能性があった。売却して正解だった」。6代目文四郎はそう振り返る。

最後に

個人情報保護法のため、〇〇の名前は伏せさせていただきます。
歴史をさかのぼって今現在の自分を知ることは必要だと思います。
幼い頃は代々の歴史や祖母に仏様を守っていかなければならないと再三言われて長男の身として育てられました。当時の私はかなりなプレッシャーがあったと共に甘やかされて育った経緯があります。
50歳前半ですが過去の歴史に感謝し、頑張れるだけ頑張り後世に伝えていければと考えております。(7代目文四郎予定者より)

 

 

 

むかしの菊乃井の話

むかしの菊乃井 黒石の歴史を振り返る

創業文化三年、津軽の風土が醸した希少な美酒の数々を。

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株式会社鳴海醸造店

杜氏兼社長 鳴海信宏