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むかしの菊乃井 黒石の歴史を振り返る

黒石の起源を探り・振り返り、黒石で商売を行う鳴海醸造店(菊乃井)の背景を感じて頂きたいと思い抜粋させて頂きました。ちなみ鳴海醸造店は文化三年(1806)創業です。
引用の部分は当時の文献をそのまま掲載させて頂きましたのでプラス56年で計算して頂きたいと思います。黒石百年史より鳴海醸造店(菊乃井)の歴史を抜粋させて紹介させていただきます。抜粋はそのままの表現を用いました。黒石百年史は、昭和37年5月10日に印刷され同5月20日に発行されました。著者は、故鳴海静蔵氏により黒石市役所より発行されています。ちなみに当時の市長は故高樋竹次郎氏でした。高樋竹次郎氏は現市長高樋憲の叔父にあたる。

【第一章 黒石藩以前の黒石】
P1~4 黒石の地名
黒石百年史は、黒石の明治維新から現在に至るまで、約百年間の政治経済文化の各般にわたって、その発展の経過を延べることに目的が置かれる。まずそれでは百年の歴史を書く前に、黒石発祥の概念から入りたい。黒石の地名が記録に残っているものとして最も古いのは、興国四年(618年前)6月20日付の、工藤右衛門尉貞行の妻しれん尻が書いた書状である。その文書には、つがるいなかのこをり、くろいしごう、おなしき、まん所しきの事
右所は、くどううえもんのぜうさだゆきさうだいの所りやうたるあいだ、しれん、かのごけとしてそうでん(中略)ちやくそんりきじゆ丸にゆづりあたうる也(後略)とある。工藤右衛門尉貞行は、鎌倉幕府から派遣せれていた地頭で、黒石郷を支配していた。貞行の娘かいず御前は、八戸の領主南部信政に嫁いでいたが、貞行が没してから、貞行の妻しれん尼が、領地をかいず御前の子力寿丸(南部信光)に与えたのだ。興国四年の文書は、この時の譲り渡しの証文である。したがって、黒石郷の地名は、興国四年よりももっと以前から使用されていたことがわかる。黒石の地名の起源については、いまもってはっきりしないが、蝦夷の住む土地を久慈須(クジシ)、国栖(クニス)と称したことから、国栖がくるし、さらにくろいしに転化したのではないかというのが、大かたの一致した見方である。さて、しれん尻が黒石の郷を孫の南部信光に与えてから、黒石の郷は南部の所領になるのだが、その後黒石郷は、同じ南部の家臣浅瀬石城主千徳家の領有と変る。そして、慶長二年(364年前)、南部の一族でありながら、南部に反旗を翻えした大浦為信に、浅瀬石城の千徳政康が亡ぼされると、津軽は為信に一統されて、黒石は為信の支払下に置かれたのである。為信が津軽を統一してから四十年後の明歴二年(350年前)、為信の孫、津軽十郎左衛門信英が、黒石に五千石で分地した。黒石五千石といっても、本家は一ヶ所にまとめて領地をくれたのではなく、黒石二千石、平内一千石、上州勢田郡に二千石と、三カ所の飛地を与えたのであった。黒石二千石とは、現在の黒石市の地域から、浅瀬石、追子野木、六郷、中郷の一部を除いたものと思えばよい。その頃の黒石は、境松を中心に黒石城があったのだが、信英は現在の黒石小学校の場所を陣屋とし、その周辺に町造りをはじめたのだ。それが今日の黒石の市街地である。
完文三年(298年前)信英の長子信敏が二代目をついだが、この時信敏は弟信純に千石を与えた。ところが、信純が病で亡くなったので、信敏の二男信俗を信純の後継ぎにたてたが、信俗も若年で亡くなり、一千石は幕府に没収された。それで黒石の五千石は四千石に減った。だが、それにもかかわらず、黒石は裕福だったといわれている。というのも、分地当時から黒石の実収は一千石を越えていたこと、第二は、商業政策がよろしきを得て町が繫盛したことにあった。城下町の発展策については、歴史の領主が常に関心を払ったところである。藩祖信英は、河南の農民を黒石に呼びよせるために、黒石と尾上を結ぶ道路をつくらせた。何せ黒石領は人口が少なく、弘前領に取り囲まれているので、弘前領の農民が黒石に来てくれないことには町の発展はあり得なかった。特に黒石の発展に功績があったのは、文明年間(170年前)から家老を勤めた境刑右衛門で、春の馬乗り、夏のネプタ、盆踊りを奨励して、近郷の弘前領から人を集める方法を講じた。春になると、馬乗り競争に出場する騎手と見物人が、北は浪岡の方から、南は大光寺、尾崎の方面から集まってきた。ネプタ時になれば、高さ五、六間のネプタが街をねり歩き、遠くの村々からも眺めることが出来た。盆になると、侍も大家の人達も踊りに出るという具合で、町中踊りを踊らぬものがなかった。すべてこれらの行事が領主の奨励にかかわるものだから、行事が年々盛んになるのは当然であった。しかし、黒石が弘前領の農民を町に吸収して、商業の取引きを活発にするのを弘前藩はいつまでも黙ってみてはいなかった。黒石に馬乗りがあると、弘前藩では町の入口に縄を張ることを黒石に命じて、馬が通れないように妨害したり、ある時は経済封鎖で黒石を困らせるにかかったこともあったが、家老の境刑右衛門は、馬が楽に通れる高さに縄を張って、本藩の命令に従うようにみせながらも、馬乗りに支障を来させなかったし、また、経済封鎖は黒石よりも、卸問屋の弘前の商人が困って、弘前の方で先きに手をあげるしまつで、長続きはしなかった。黒石藩の施策をみると、いかに小藩として生きる道を見出すかに専念している跡がうかがわれる。
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P4~5 一万石の大名になる
黒石は文化六年(150年前)、八代親足の代に、四千石から一万石に高直りになって大名の列に加わり、参勤交代をするようになった。この時から黒石を藩と呼ぶようになる。黒石が四千石から一万石になるには、不足分の六千石を弘前藩で米をもってあてた。これはすべて本宗弘前藩の助力によるものである。当時弘前藩主は津軽寧親で、相馬大作にねらわれた史上有名な殿様である。寧親は本当は黒石の六代目をついだ黒石の殿様であったが、本藩に後継ぎがなくて、長男に黒石を継がせ、本藩をついだのだ。だから寧親としては、黒石を粗末に出来ない義理があった。まして、寧親の代に、弘前は四万七千石に高直りしたので、寧親はすぐその後で黒石の高直りに意をそそいだものらしい。本藩の弘前が十万石になったのは、幕府から蝦夷出兵の功労を認められたからであった。それにくらべると、小禄の黒石は、蝦夷出兵の義務も負わされず、泰平の中に過ごしてきたのに、一万石の大名になることが出来たのは、全く寧親の尽力の賜である。けれども大名になって、参勤交代をするようになってからは、黒石藩の財政も次第に苦しくなっていった。
貸借無差別令で、殿様が商人から借りた金を帳消しにしたのも、その現れでの一つである。この頃から藩は藩の財政問題を解決するために商人を侍に取り立てしたりして、切り抜け策を講じている。こうして幕末に近くなるのだが、明治維新では黒石藩が新政府に加担して、函館戦争に参加することになる。こと函館戦争こそは、黒石藩二百年の歴史の中でただ一度の戦争であった。津軽藩は奥羽連盟を脱退し、官軍方になったので、幸先きのよい新しい時代を迎えることになった。

黒石で生まれ黒石で育ち、黒石のことは全く勉強不足ですが、入力させて頂き少しは時代背景が見えてきました。これからもこの街をもっと愛し商売を続けれるよう頑張っていきたいと思います。

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昔の鳴海醸造店の話

創業文化三年、津軽の風土が醸した希少な美酒の数々を。

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