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2020 農大学報 掲載

私は平成2年3月東京農業大学農学部醸造学科を卒業させて頂きました。昨年の11月に原稿の依頼が来まして書いたものが掲載されましたので紹介させていただきます。自分で書いた文章だから掲載しても大丈夫ですよね。

農大学報の冊子

東京農業大学教育後援会が出版しているもので農大学報149第63巻第2号令和2年1月

原稿の内容

P155~157 造り酒屋の長男として生まれて 鳴海信宏。
私は青森県黒石市に昭和四十二年に生まれました。地元の学校を卒業して、実家が造り酒屋ということで東京農業大学農学部醸造学科に推薦で入学させて頂きました。何も考えずに親の指さすままに育ってきたのだと今ふと思っております。平成の初めまで父親が酒類の卸問屋と造り酒屋を併用して会社を経営していました。DSの影響で価格競争が激化して卸問屋は止む無く売却して造り酒屋一本で生計を立てていく方針になりました。私は、大学卒業後三年間東京の卸問屋で勤めていましたが、平成五年の四月に現在の会社に入社しました。当時は普通酒が主流で売上の80%を占めていました。青森県でも鑑評会があり弊社の蔵は最下位を競う品質でした。卸問屋重視で酒屋は授業員にまかせっきりだったのでした。私が蔵に入った頃は、蔵人も高年齢者が多く朝6時から夜7時半まで拘束され、賄も三食支度するに専用に従業員を雇入れしていました。一年間は状況をみて、同期の友人などに相談をして改革していかなければならないと思いました。朝は8時から夜5時にして弁当を持参してもらうこと。鑑評会のお酒造りについて講習会の参加や指導機関に相談して改善していきました。蔵人は最初反発してきましたが、時間を掛けて説得をしてきました。高齢者は、年齢と共に徐々に自己退社していき酒造りに対する情熱をもった人が集ってきました。入社して三年目には青森県鑑評会でも金賞を取れるようになり、五年目には仙台局でも優等賞を受賞できるようになりました。全国の鑑評会でも一回は取りたいと思い、平成十三年に念願の受賞が叶い歓喜したことは今でも忘れません。私が杜氏を務めるようになってから十三年経ちますが、数々の受賞を頂き、蔵人の励みになっています。また、市販酒でも純米吟醸・純米酒などの特定名称酒の割合が増えてきました。四年前に社長を譲り受けましたが、それまでは数年赤字が続いていました。私は新しいブランドを立ち上げその商品は卸問屋を通さず地酒専門店のみの販売という特約店制度を設けて販売していきました。丁度発売時期に合わせて青森県の鑑評会四冠中三冠を制覇することが出来、出陣に華を向けさせて頂きました。決して喜ばしいことばかりではありません。当社は江戸時代後半から残る市の文化財に指定されています。建物も老朽化している中に屋根の修復なども元通りの形に修復するという規制が掛けられています。余力があるうちに少しずつでも先行投資して修復や機械の導入をすすめていっていれば良かったものの前社長は中々渋って現在に至っています。今できるのは、商品のレベルアップに繋がる機械の導入や県外の酒販店の割合を増やして行くことが目標です。だいぶ後発ではありますが、そういったことの積み重ねがいつかは芽生えるものと信じています。長男が自身をもって将来造り酒屋をやりたいと心から思えるように突き進めて行きたいと思います。酒造りもそうですが、地元で商売をしていますので街つくりや地域の団体での活動も必須になってきます。今現在は市の連合PTAの会長と県の副会長も務めさせて頂いております。私の住む街は、来年の春にむけて適正配置における大きな統合が待っています。統合にむける教育委員会側と学校・地域における問題をうまく取りまとめていかなければなりません。そういった活動の中にも横のつながりが増え、常に自分自身を成長させていただけるのと大変な仕事でありますが、有難みをもってやらせてもらうようにしています。体の健康が一番で今現在何不自由なく過ごさせて頂いております。自社のためにも地域のためにも頑張っていきたいと思います。

あとがき

最後まで読んで頂きありがとうございます。だいぶ話をもったかな?酒造りが始まる前で原稿締切が長かったのですがあと廻しにすると忘れる、また忙しくなると思いテーマの選択がありましたが、得意分野でかきました。東京農業大学とは大変ご縁があり、父も農大・現在息子2人も農大・私の弟2人も農大です。お金のかからない原稿依頼・日本酒の協賛でしたらいつでもお世話になっている大学ですから。

 

創業文化三年、津軽の風土が醸した希少な美酒の数々を。

青森の地酒 菊乃井 稲村屋文四郎 稲村屋

株式会社鳴海醸造店

杜氏兼社長 鳴海信宏

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